「あなたの“生きたい”の最後の砦にぼくもなれたら」
最近よく生死について考えるのよ。
ツイッターで声を聞くと、身を削りながら生きている人があまりにも多くて。
ぼくが考えた「生死について」を綴ってみようと思う。
最後まで読んで、感想聞かせてもらえたらとても嬉しい。
あのさ、
人間の本能は、どうやってもぼくらを生かしたいらしい。
生かしたいらしいんだわ。
三大欲求と言われているものは、人間が生きて繁栄するために強く本能に刷り込まれている。
生きるために食物を食べて、生きるために睡眠をとり、生きて繁栄するために子孫を残す。
そのどれもが生きるために本能的にある感覚。
という、前提の世界にぼくらは生きている。
死に直面しなければ、「生きたい!」と強く願う機会もないこの世界に生きている。
という前提だ。
元々ある、という。当たり前にある、生きたいと思っているという前提がどうしても在る。
「生きたい」という欲求は、三大欲求に入らず、皆に必ず存在するという前提で話が進んでいるのだ。
だから、気づいた人間は生きにくいのだ。
「生きたい」欲求がなければ、三大欲求はまた二の次なのだと。
みんなが生きたいこの世の中は、生きたい欲求が前提にない人間には生きにくい。
生きているから仕事をし、生きているから人間関係を築き、生きているから地位や名誉を戴いて、そして自分の欲求を上乗せしている。
生きるために仕事する、と言うわけではなさそうなんだよ。前提に「生きていること」がどうしても在る。
様々な欲求の根底にあり、存在が必ず有ると断定されるものが、「生きたい」という欲求なの。
生きたい欲求は、ぼくらが生きたいと思わなくても本能に深く根付き、ぼくらを生かすために存在し続ける。
ときにその本能の根底にある欲求は、自らに刃を向けて
ときにその本能の根底にある欲求は、自らの感覚を奪い
ときにその本能の根底にある欲求は、自らの記憶を改竄し
本能の根底にある「生きたい」欲求は、どんな形でもぼくらを生かそうとする。
髪の毛を抜き、爪を噛んで、腕を切り、足を切り、血を瓶に溜め、癇癪を起こし、脳の成長を止め、心を無にし、記憶を奪って、人を傷つけ、自分を忘れても尚、生かそうとする。
心臓が止まらないように、それ以外を奪い傷つけ失いながら、それでもただ生かそうとする。
ぼくらが生まれてきたその時から、この「生きたい」欲求は無意識のうちに存在を確かに誇示する。
そして在り続ける。死の間際まで、確実に在り続ける。
この世界が生きにくいあなた。
あなたの「生きたい」欲求と少し話をしましょう。
「身体を傷つけるのはやめて、特に目立つところは避けてほしいなぁ。」
「心がしんどいと思ったら逃げてほしいよ、さすがにもう苦しいからさ。」
「生きたいにしてもこれは痛いし、そろそろ違う方法を考えてほしいんだけど……」
「社会のために生きてる訳じゃないから、自分のために生きたいと思えるように協力してよ。」
「生きたい」欲求と、対話をして、今の自分の生き方を振り返ってみる。
死にたい気持ちはあっても、それでも呼吸をしているうちは、できるだけ楽に在りたいじゃないか。
生きたい気持ちがあるんなら、心臓が鼓動をやめないうちは、自分の楽を探したいじゃないか。
話をしよう。
「生きたい」欲求と、話をしよう。
どんなふうに生きたいの。
どんなふうに、生きていたいの。
拝啓、「生きたい」自分へ。