子どもが僕らを素敵な先生にしてくれる。

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児童養護施設、小学校、教育系大学、教育実習、療育施設などで経験した事柄を連ねる、徒然なるままにが過ぎるブログ

発達障害の観点から、みんな同じではなく、みんなが違うという「平等」を考える。

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「人と同じじゃないのが当たり前だと理解する。まずはそこから。」

発達障害の子どもたちには、定型の子どもよりも様々な危険が潜んでいます。常に危険と隣り合わせなのは定型も非定型も変わりないのですが、危険を回避する力に差があります。

 

自閉症は、自分の世界の深いところに意識があるので、周りにあるものは全て背景と化しています。親御さんの呼びかけに返事をしないのも、目の前にいるのに目が合わないのも、その特性です。単純に、声はBGMとして。目の前にいる親でさえ、視界を遮断する何かにしかならない。それは自分の意識が深くにあり、突然興味のないものが現れたとして注視する対象にならないのです。

自閉症の脳の特性として、それは当たり前のことなのです。

 


もう一度繰り返しますね。

外部の刺激に反応しないことが、当たり前なんですよ。
子どもの世界でも、大人の世界でも、その個人が感じていることこそが個人にとって「当たり前」なのです。

 

そんな「当たり前」が、みんな一致するなんて滅多にない、稀有なことだと思いませんか。

実際、ぼくら定型発達の脳も、「当たり前」は一人一人違っていやしませんか。

みんな同じに、見せているだけで。

 

 

定型発達を基準として作られたこの平均の国では、凹凸を均すことに重きを置きがちです。
多数が平均してできるので「できなければならない」ことが増える。しかも、足並み揃える必要もあるわけですよね。

 

 

人の見ている世界と、自分の見ている世界が同じであると証明する方法はありません。特に視覚、聴覚などの感覚は、個人差や環境差により同等のものと証明することは難しいでしょう。

空の色は青だ、と100人が言っても、その100人が同じ色を指しているかはわからない。濃淡や明暗の差。どこから青で、どこまで緑なのかという感覚。そもそも、青と感じる細胞の作りが違うかもしれません。

自分の世界に他人を当てはめて、「なぜ同じようにできないのか?」「なぜ同じにならないのか?」と考えるのは得策ではないと考えます。

 

「みんな同じ!」という平等ももちろん大切です。
しかし、ぼくが重要視しているのは「みんな違う!」という平等です。定型発達も、身体障害も、発達障害も、精神疾患も、みんながみんな、違うのですから。

そうは言っても、違うから傷つくし、違うから上手くいかないことがある。違いに気付いて悩んだり、違いを認められず無理矢理均したり。

でもそれって、みんなしてる。

皆がそれぞれ向かう場所は違ったとしても、皆がそれぞれ足りないと感じるものが違ったとしても、みんながみんな、何かしらをすり減らして生きている。

違うことを理解する。
みんなが同じではなく、みんなが違うの。

みんな違うんだから、みんな同じ……なのかもね。みんな違うんだから、考えも結論も違うはずだよ。偶然の一致は、稀有な奇跡だよ。


ぼくは大人として、子どもに関わる職員として、それぞれの違いをいち早く理解して広めていく責任がある。教師にとっての正義は、必ずしも子どもにとって正義ではないし、大人にとって良いことと、子どもにとって良いことは違う。

みんな違うんだから。
違うんだから、考えなければ。


「この子にとって何が当たり前なのか」を大人が理解できたらいいなぁ。
「この子の命を守るには何を教えればいいのか」を、考え続ける大人が増えたらいいなぁ。

さらにぼくら教職は、教えることが仕事で、使命ですから。教えるためにその子の世界に入る方法を、考え続けて生きていくのです。