「自分の生きる場所は自分でつくる。自分で探す。自分で変える。」
「冬季うつ」なんて言葉があるように、生命力が低下する季節である冬は、生きづらさに拍車がかかっている。
対してぼくは、夏が苦手で暑い日のほうが生きづらい。
春は花粉がしんどいし、秋はおなかを壊しがち。冬が一番落ち着いて生きられる、生きやすい季節だと感じる。
水の中で生きる魚がいて、崖の上で生きる動物がいて、生き物はそれぞれ自分の生きる場所を分けている。
人間、と一括りにしても、この種には本当に様々な種類がいる。
言葉が違う。文化が違う。正義が違う。
何かひとつが違っただけで、こんなにも「違い」を感じる生き物は他にいないのではないか。
逆に考えると、同じ種類の人間を見つけることが奇跡であって、至難の技。
人間ならば全て自分と同じであると考えるのは、浅はかで無知であるということなのかもしれない。
生きる場所を選ぶ人間以外の生き物たちは、自分にとって生きやすい場所を選んでいる。
または、その場所で生きやすいように身体を変え、方法を変え、適応している。
果たして、人間はどうだろうか。
特に日本という国では、「みんな同じである」という平等が当たり前の意識としてある。
出る杭は打たれ、平らに均される。無意識に平等を求め、自分を基準に、誰かに凹凸があれば平らに均そうとする。
これが無意識に可能であり、生きづらさを感じていないのであれば、この国の、この制度に、見事適応した人間であるという証なのかもしれない。
では、発達障害や精神疾患、その他マイノリティと呼ばれる種類の「均すことができない」人は、この国で生きづらさを抱えながら過ごさねばならないのか?
────────答えは、否だ。
自分にとって生きやすい空間を作ることは、誰にも侵されないからだ。
自分にとって生きやすい場所を探すのが、生きづらさを緩和させる1つの手段である。
自分に似た感性と、生き方を目指す人間を仲間に共存するのもよい。
地域ごとに特色のある島国で、どこか馴染む土地があるかもしれない。
狭い国を出て、大陸に出るのも良い。遣う言葉によって、人間は性格が変わると聞いたことがある。新たな場所で、新たな自分も見つかるかもしれない。
人は一人では生きづらさを感じる個体が多いが、集団に属すること自体が苦痛になる時もある。望むのなら、一人になれる場所へ行くのももちろん良い。
または、自分を今の環境に適応させる支援を受けるのも良い。
社会福祉を利用して、大衆に馴染む訓練を受けられる。
自分の芯は変えずとも、大衆を研究し他者を知ることで、大勢に馴染むための知識を得られる。
周りに自分を開示して、相互に理解を求め、環境そのものを変えることもできる。
自分にとって生きづらい場所に、甘んじていなくて良い。
なぜなら、世界は広く、あなたの知る範囲などちっぽけでしかないからだ。
ぼくは、それを、知らせに来た。
あなたのための場所が、絶対にある。
生きづらさを抱えながら、その場所で意固地に変わらず居ないでくれ。
「自分を変える、環境を変える。」
言葉では簡単だが、なにせマイノリティの立場からは難しいのが現状だ。
行動に移す力が残っていないときもある。環境がそれを阻害していることもある。
だから、ぼくは、知らせに来た。
一緒に見付けよう!
一緒に変えていこう。
できるよ、生きやすいように、生きよう。
生きやすいように、生きよう。
生きやすい場所で、死のう。
心安らかに、穏やかに、なんとなくでいい、心地よく、命を終えよう。
ぼくはそう思って、生きやすい場所で生きているよ。
あなたにも、知らせに来たよ。
生きやすく、生きよう。
生きやすい場所で、命を終えよう。