「あくまでも、ぼくの場合だぞ、ぼくの場合」
最近ちょーっと夜シリアスモードになるときがあってね。
そんなときいつも、ぼくは魚だ、という意味のわからない結論に辿り着いてしまう、という話をします。
抽象的な表現が多く、自分のなかでもまだピッタリくる言葉が見つかっていない。
見つけるまでの右往左往を、皆さんにご覧いただこうと思ってここに記します。
自分の守られた自由、魚に思いを馳せる
ぼくは自分の思いを魚に例えることが多いのだが、決して魚を不自由だと思っているわけではないんだよ。
彼らには彼らの自由があって、便利さがあって、種族を繋いでいくための手段もあるんだから。
それでも!ぼくにとって魚ってやつはね、
確実に身近で生きているのに、囲われた特定の場所の中でしかで生きられないジレンマの具現化で。
近くにはいるのに、何かを隔ててしまわないといけない。
近くには感じられるのに、同じ大地を踏んで酸素を取り入れることは不可能である。
この、なんだか、もどかしい感じが、ぴったりなんだよ。
前にも話したと思うんだけど、魚は、声を持たないよね。
きちんと言えば、人間にも聞こえる声を、何一つ持ってはいないんだ。
ぼくは、彼らと意思疎通の手段がない。
ジェスチャーもわからないし、瞬きもしない。
この手で触れることすら難しいんだ。
(魚は体温が低いから人間が不用意に触ると火傷してしまうのだとか)
隣にいても、触れられず、会話もできず、顔色も変わらないこの魚たちと、それでもぼくは、「共に生きている」と感じているんだよね。
水槽のなか、出られない小さな四角の四隅をで、くるくる、ひらひら。
たゆたっている彼らはとても美しく、ぼくらの目と心を豊かにしてくれる。
ガラス一枚隔てても、そこに在る命を、ぼくは感じている。
きっと、
ぼくの心もそんなもんだと思うの。
人と自分の間には必ず何かしらのシールドがあってさ。
それに色がついてたりね、軽かったり重かったり、厚みがどうとか素材がどうとかは様々だと思うけど。
自分の心のなかから他者を見ると、必ず己のシールドを通して見ることになるのよね。
これがどういうことかというと、自分のなかには自分の住みやすい水槽を守っていけば良いわけよ。
自分の要らんもんは全部外に出して、自分の生きやすいものだけを集めた水槽のなかにいればいいのよ。
でも、それだけじゃ生きていけんという人たちのために、シールドがあるんよ。
側には居たいけど、ここからは入ってきてほしくないから高めの塀を作っとこう、でも見えないのは寂しいから素材はガラスで透明にして、そのガラスを割ってまで中に入ってくるような人にはめちゃめちゃ警戒しよう、とか。
そういうの。
うまく言えないけど、シリアスな夜にハルせんせーがポツポツ考えていたことでした。