子どもが僕らを素敵な先生にしてくれる。

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児童養護施設、小学校、教育系大学、教育実習、療育施設などで経験した事柄を連ねる、徒然なるままにが過ぎるブログ

ぼくらのたからばこやさん

「教育」と「福祉」の違いは何か?教育者のぼくは何者か

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「教育は恐ろしいことだ、最大級の愛情をもって洗脳することに相違ない」

ツイキャスコメントからの何気ない質問

最近始めたツイキャスに、とある質問が届きました。

「ハルせんせーにとって、教育とはなんですか?」

そのときは即答できずに、うーん……ちゃんと考えます、と言って時間をもらいました。

きちんと考えて出た今の自分の結論を、ここに、記しておきます。

 

教育と福祉の違いはどこに感じるか

ぼくは元々、公立小学校の教師をしていました。

担任として学級を受けもって、子どもたちに授業をし、学校という場所で生計を立ててきた過去があります。

 

 

現在は児童養護施設で勤務しており、自分を取り巻く環境が「教育」から「福祉」に変わりました。

 

教育と福祉の差をあまり意識したことがなかったので、この点から考える必要があったのです。

 

 

教育と福祉の違いはどこにあるのか?

 

 

元々教育畑にいたぼくが、現在は福祉畑で働いているわけですから。

自分では気づかないうちに、感じ方も方針も変わっているのでしょうか。

 

 

 

答えとしては、NOです。

 

ぼく自身は、どの業界に所属していたとしてもなんら変わらないということに気づきました。

自分の信念と、大切なものは、環境によって変わるものではありませんでした。

業務内容として違いを感じることはあれど、子どもに対する気持ちや姿勢は、ほんと、何も変わっていません。

 

 


ですから、ぼくにとって教育と福祉の違いは、特にありません。

 

 

 

自分にとって教育と福祉は、辞書上の意味の違いでしかないというところに考えついたわけです。


強いて言うならば、「先生(大人)」が絶対的か、そうでないかですかねぇ。

教育の現場では、先生がこう!と言ったらそれに従うことが所謂ヨイコとされています。
(でもこの風潮、どーかと思うのよぼく)

福祉の現場では、教育ほど先生に従順でない子が増えると感じています。

 

 

それでよいのだ。

無理に従わなくても、きちんとあなた自身を見ていてくれる先生だけを、先生と呼んでね。

ハルせんせーにとって、教育とは何なのか

ぼくは自分が「せんせー」で在れることに誇りを持っています。

 

子どもたちがぼくを、先生と呼んでくれるから、せんせーのぼくがある。

 

ぼくがせんせーで居られるのは、この子たちのお陰なのです。


この子たちがせんせーと呼んでくれなくなれば、ぼくはせんせーとして在ることはできないのです。


子どもがぼくを、せんせーにしてくれているのです。


誇りです。


ぼくの命における、一番の誉れです。

 

 

 

 

そんな子どもたちに、「教育」を施すのがぼくの役目なわけです。

 

だって、せんせーだから。

 

 

 


ぼくにとって教育とは、

最大の愛を惜しみなく注ぐ「洗脳」であります。

 

 


子どもがこの先の命を、ただひたすらに生きやすく生きられるようにという、

傲慢で身勝手なだけの、ぼくからの「洗脳」であります。

 

 


何からも守られる自己肯定


地道に積み重ねられた成功体験


揺るぎなく愛されたという自信


放棄せず思考を続けられる能力


外界と内界を隔てても切り離さない器用さ


心身を守るのに優しく特化した思考


生にのみ舵をとれるしなやかな命

 

 

それらを、この幼い時期に育みたい。


自らを守り、そして他者を守れる力を培いたい。

 

 

これだけ聞けば、立派な教育者にみえるかもしれません。

 


しかし先程挙げた全てが教育者としての主観であり、

ただの身勝手なのです。

 

 


ぼくは、教育の名の元に、

子どもたちを「洗脳」しているに違いありません。

 

 

 


きっと、ぼくだけではないはずです。


あなたが受けてきた教育は、少なからず洗脳であり、教育者側の身勝手です。

 

 

 

先生が言ったから、親が言ったから、が理由になっている物事、あなたのなかにもたくさんあるはずです。


その事実が、「洗脳」であるとぼくは思っています。

 

恐ろしいことです。


恐ろしく、難しく、そして、許されないことです。


しかし教育は、きっと子どもたちにとって洗脳で、そのせいで今を苦しんでいる子がいるかもしれないのです。

身勝手な教育者から、愛する子どもたちへ

ぼくの愛する子どもたちよ、ぼくの言葉を信じて、そして同時に疑ってくれ。


そしてその洗脳が解けかけたとき、解けたとき、ぼくのことを思い出してくれ。


あんたの言ってたことほんとうなのか?と、ぼくに問い直してくれ。

 

 


自分で出した答えが正解だよ。


その答えを導き出した自分が正解だよ。

 


君にしかわからない、君にとっての正解に辿り着いて、

ぼくの言っていたことが

「ハルせんせーにとっての正解なのだ」

と気づいたとき、


「騙された」と憎まれるのではなく、

「守られていた」と感じてもらえるよう、

ぼくは君のための教育者で在り続ける。

 

 


愛する子どもたちよ

ぼくが与えられる教育は、洗脳だ。

 
最大限の愛をもって、君を守るためにある洗脳だ。

愛の名の元にあったとしても、それは紛れもなく、ぼくの身勝手な洗脳なんだ。

 

 


疑ってくれ。


問い直してくれ。

 

ぼくはそれに答える。

ぼくはそれに応える。

 

君の内から湧き出る「どうして?」にこたえられる自分を、ぼくは今日も身勝手に、教育者と呼ぶ。

 

せんせーと呼ぶ。

 

 

ぼくをせんせーと呼んでくれてありがとう。


今日もせんせーは、君を守るよ。