「手当てをしましょう、あいをこめて」
自分では理由のわからない痛みを訴える子どもたち
ぼくの仕事は、児童養護施設の職員です。
何らかの理由で施設に来たたくさんの子どもたちと、生きる時間を共にしています。
ここで過ごす子どもたちは特に敏感で、しばしば痛みを訴えます。
おなかいたい
あたまいたい
あしがいたい
みみがいたい
それはストレスからくる神経痛的な痛みであったり、不安で過敏になっている皮膚や関節の痛みであったりします。
発達障害由来の感覚過敏であることもあります。
勿論、身体に外科的な怪我が見つかることもありますし、持病の悪化が原因の内科的な痛みである例もあります。
(病院には係りの職員がすぐに連れていきます。投薬治療も、職員全員が毎日気をつけて行います。)
しかし、ぼくが1番多いと感じている痛みの理由。
それは
「不安な心をどうにかしてほしい。」
という、子どもなりの切なる訴えです。
これは心因性の痛みです。
劇的に効く薬のない痛みです。
子どもたちは毎日、不安定な心が訴える痛みを叫んでいます。
なぜ痛いのかわからないまま、患部の見えない傷がどうしても痛むと訴えているのです。
児童養護施設職員のぼくがする謎の痛みへの手当てグッズ
しっかり確認しても外傷がなく、薬の飲み忘れなどもない場合に、
ぼくが特効薬として施している手当てがあります。
まずは、常に携帯している大きめの絆創膏。
どう見ても怪我は見つからないけれど、
「ここが痛い」と皮膚の痛みを訴える場合に使用します。
二つ目は保湿クリーム。
どうしても怪我は見つからないけれど、
関節や筋肉、皮膚に痛みを訴える場合に使います。
(冬場は乾燥するので、本来の使い方で痒みにも効果が期待できます。)
三つ目は、暖かい飲み物です。
緑茶でも、ハーブティーでも、ココアでも紅茶でもコーヒーでもいい。
暖かい飲み物を、いつもより丁寧に淹れます。
手当てグッズを特効薬たらしめる重要なポイント
上記した3つの手当てグッズは、このままでは特効薬になり得ません。
絆創膏を手渡すだけでは、特効薬にはなりません。
保湿クリームを自分で塗りなさい、と指示をしたのでは薬にすらなりません。
暖かい飲み物を差し出しただけでは、特効薬とは言えないのです。
ではどうするの?
ぼくらが、手当てをするんです。
そのグッズを使って手当てをし、その子のためだけの時間を作るのです。
ぼくがその子のために膝を折って座り込み、ぼくの手で患部へ貼ることで、なんの変哲もない絆創膏は特効薬と化します。
家事や書類仕事を一時中断し、その子のために保湿クリームを取り出して、痛む部分に優しく塗布します。
筋肉が緊張しているから痛いのかもしれない。解すために、少しリンパのマッサージしてもいい?など、コミュニケーションも忘れずに。
小さな子なら膝に乗せて、痛む部分を何度もさすってから手当てグッズを使う日もあります。
大きな子たちなら「痛みに効くハーブティーだよ」なんて言いながら一杯、暖かいお茶を淹れ、話をします。
向い合わせではなく隣に座って、甘えやすい距離感で話をします。
子ども自身にも原因のわからない痛みは、
今私は手当てを施されている。
守られている。
治そうとしてくれている。
私のために気遣ってくれる。
私だけに時間を割いてくれる。
そんな安心感により、緩和されます。
いわば、安心を与えることこそが、原因不明の痛みに対する特効薬なのです。
絆創膏や保湿クリームは、「あなたを心配しているよ」を可視化するための手段に過ぎません。
暖かい飲み物も、「時間をかけて作ってもらった特別なもの」の可視化です。
冷たい飲み物は冷蔵庫に入れておけば常備できますが、暖かい飲み物は飲みたいその時に作るものですからねぇ。冷めちゃうしね。
安心を手渡したいときには、目に見える何かを媒介にするのがおすすめです。
「手当てしてもらった」と、子どもが無意識下で理解するのを助ける働きがあり、特効薬の効果が高まります。
「痛み」の少ない環境をぼくらが作るために
痛みに関する治療は、専門のお医者さんにしっかり指示を仰ぐのがベストです。
痛みの裏側には様々な病気が潜んでいる場合があります。
必ず一度、専門医による診察を受けてくださいね。
医師ではないぼくにできることは、
手当てをして、安心を作ること。
結果として、
痛みに効いているように感じる特効薬を手渡すことです。
不安定な足場で生きている子どもたちは、痛みを感知する力が強まっています。
命を守るために、心を守るために、
いち早く痛みを感じ、危険を回避しなければならないからです。
子どもたちに、愛を込めて手当てをしていれば
この人は危険ではない。
安心をくれる人だと認識してもらえるチャンスが増えます。
痛みや嫌悪感、倦怠感などを伝えてもらえること。
それは子どもの味方でありたいぼくにとって、とっても光栄なこと。
「あなたなら、私のこと守っていいよ」と言ってもらえているのですから。
「しんどいから側にいてよ」という、合図をもらえるわけですから。
「今日はおなかがいたい」と、素直に教えてもらえる大人でありたいものです。
そして痛みをも凌駕する何かを感じてもらえるように、努力できる大人でありたいものです。